イラク・アフガニスタン帰還兵の証言 No.7 ハート・バイジェス

掲載:TUP 冬の兵士プロジェクト 2008-11-27 14:43:43

 

冬の兵士 ハート・バイジェス
交戦規則 (4)

訳 金克美 / TUP冬の兵士プロジェクト

今こそ魂が問われる時である。夏の兵士と日和見愛国者たちは、この危機を前に身をすくませ、祖国への奉仕から遠のくだろう。しかし、いま立ち向かう者たちこそ、人びとの愛と感謝を受ける資格を得る。トマス・ペイン、小冊子「アメリカの危機」第1号冒頭1776年12月

メリーランド州シルバースプリング公聴会
2008年3月13〜16日

ハート・バイジェスです。9/11事件の直後に陸軍に入り、空挺部隊/歩兵部隊を志願しました。結局、第82空挺師団/第325空挺歩兵連隊第1大隊/司令部及び司令部付中隊/迫撃砲大隊、”空のハンター”、”舞い降りる死”に配属されました。2001年11月に入隊し、2004年12月で離隊。クウェートに配置されたのは2003年2月で、3月に始まった侵攻作戦に参加しています。

当初はバグダード空港内へ落下傘降下する予定でした。しかし第3歩兵師団の進軍が予定よりも早かったので、われわれは陸路で入り、補給路にあたる町を確保することになった。サマーワという町でした。訓練は受けてきましたが、実際に任務に就くのはこれが初めてでした。自分は迫撃砲手、81ミリ迫撃砲の砲手でした。われわれが配置されたのはサマーワの町の外で、ほとんどゴミ捨て場のようなところでした。ハエがものすごくて食べることもできない。太陽が昇っている間は、携行食のプディングを口中ハエだらけで食べることになる。

自分がそこで見たこと、というか、実際にやったことは、もっとひどかった。無線連絡を聞いていると戦闘部隊が厄介なことになっているとか、ある建物に何人か入っていったぞとかいう。そうすると砲撃命令を受けて、その建物を迫撃弾で破壊してしまう。自分はタイマーをセットし、弾を、迫撃砲の弾丸を装填する。あの迫撃砲攻撃をしたチームにいました。

これは軍隊対軍隊の戦いじゃない。町には人間が住んでいます。普通の人たち、民間人が町に住んでいないと考えるなんてとんでもない。めちゃくちゃな話だ。自分が撃った迫撃砲弾で町がどうなったか、ほんとうには何も見ていない。だから、数えきれない死者を想像する。自分が罪のない民間人をいったいどれくらい殺したのか、殺すことに手を貸したのか、わからない。

この小さなサマーワの町に対して使われた強大な兵器がもうひとつあります。AC-130Hスペクター・ガンシップです。C-130輸送機に、弾帯式の榴弾砲を2門と、正式名称は知りませんが、スーパー・ガトリングガンのようなものを何挺か搭載していました。それでサマーワ全域を襲う。町を見境なく砲撃する。ほんとに凄い光景です、あのガンシップの攻撃は。何と言うか、砲弾は上空から降ってきますが、それはまるで大地が揺さぶられるようです。そこへ今度は、町じゅうに、家々に、カイオワ攻撃ヘリコプターがヘルファイヤーミサイルを撃ち込む。F-18が爆弾を落とす。あの爆撃は、ほんとうに骨まで震える。それがずっと続く。人でいっぱいのこの町に自分が迫撃弾を降り注いでいるあいだ、ずっと。

無線はいつも──無線からは、いいことなど何ひとつ聞こえてきません。一度などは、すべてのタクシーを攻撃しろという命令が流れてきました。敵はタクシーを移動手段にしているからだと言う。イラクではどんな車でも、ただ白とオレンジに塗ればタクシーにできる。無線を聴いていたスナイパーが「失礼ですが、聞き違いでしょうか? タクシーをみんな攻撃するんですか?」と聞き返すと、中佐が「そうだ、兵隊さん。タクシーをひとつ残らず撃つんだ」と応答しました。無線の会話が終わるやいなや、町はほとんど火だるまになりました。町に入った全部隊が数え切れないほどある車に銃弾を浴びせた。そう、人びとを撃った。タクシーの話が事実だったという証拠がどこにありますか? これが自分のはじめての戦争体験で、その後の軍隊活動は全部、ほんとうにこんな調子になってしまいました。

それからファルージャで2、3週間ほど駐屯しました。しかしC中隊がファルージャで発砲事件を起こしたので、自分たちは引き上げなければならなくなった[注1]。自分のファルージャの話は、他の人の話とは違っています。略奪を受けて、米軍が占拠したリゾート地で、人造湖に浸りながら自分は日光浴をしていました。武器は30メートル離れたところに置きっぱなしにして。ところが町から伝わってきた話をきくと……。

次にバグダードへ転進し、町をおおかた瓦礫に変えてしまった。そこにはきちんとした社会体制なんてない状態でした。警察もない。米軍以外に、権限を持つものは誰もいない。そんな状況から、われわれは我が物顔に振る舞った。人を扱うにせよ何をするにせよ、あらゆることで傲慢になった。私は、自分では人種的な偏見を持っていると考えませんが、何もかもが「ハジのこれ」「ハジのそれ」「ハジのタバコ」「ハジのバーガー」「ハジの家」「ハジの服」「ハジの敷物」でした。「ハジ」はホンキーと同じです。まったく同じことです。自分で自分が何をしているのかわかっていなかった。[ハジはイラク人を、ホンキーは白人を蔑称する言葉]

それから急襲捜索です。家を間違わなかった捜索などなかった。人を間違わなかったこともない。たったの一度もない[会場から拍手]。

バグダード郊外の水処理施設にいたときのことです。この辺りは一見とても良い所でした。木も緑もあって。ところが施設を去ろうとしたとき、突然、目の前の路上に携行式ロケット砲を持った二人の男が走り出してきた。怒鳴り声や叫び声があがる。男たちはそこにいた女性や子どもたちとひとかたまりになっていた。みんな口々に「武器を捨てろ! 武器を捨てろ!」と叫んでいる。二人はロケット砲を背負っていました。私は自分の持ち場である左側を警戒していた。彼らは右側です。自分は持ち場をただひたすら警戒していました。しかし耐えきれなくなってライフルを振り向け、ロケット砲を背負って戸口に立っている男の胸に照準を合わせました。

そうするよう訓練されていたからです。しかし男の顔を見てわかった。得体の知れない怪物じゃない。敵でもない。男は怯えて混乱していた。たぶん私も、そのとき同じ顔をしていたでしょう。たぶん彼も、私と同じようなでたらめを吹き込まれた挙句に、こんな状況に身を置く羽目になったのでしょう。彼の顔を見たことで私は我に返り、引き金を引かなかった。彼は逃げました。

アパッチヘリとブラッドレー戦闘車の援護を受けて、小さな美しい村に引き返し、村人たちを尋問することになる。イラクにはちょっとした伝統があります。フセイン時代には、近所にむかつく奴がいたら、「警察のだんな、あいつはフセイン大統領の悪口をいってましたよ。放っておいていいんですか?」と言えばすむ。隣人は連れて行かれ拷問される。今は米軍です。「やっかいものはどこのどいつだ」とわれわれが聞けば、村人は「あそこのあいつだ」と答える。私ともうひとりの兵士が車で出かけていって、そいつの小屋を引っ掻き回す。さて、22口径の小さなピストルしか見つからない。カラシニコフ銃も携行式ロケット砲もない。フセインの写真も、大金の札束もない。でもかまわず二人の若い男を捕まえる。

私が軍曹に向かって「こいつらは、探している男たちではありません」と言うと、軍曹は「心配するな。どのみち何かしでかしていたさ」と言いました。そうしている間じゅう、母親が泣きながら私にすがりつき、足元に接吻しようとする。私はアラビア語はわかりません。しかし人間の言葉はわかります。母親は「どうかお願いします。なぜ息子を連れていくのですか? この子たちは何もしていません」と言っていました。私は自分がひどく無力に感じました。第82空挺師団歩兵連隊に所属して、アパッチヘリやブラッドレー戦闘車に守られ、防護服に身を固め、手にはM4ライフルがあっても、私は無力でした。その母親を救うには無力でした。

その頃は何ひとつわかっていなかった。私は、米軍が二人を連行しても、彼らは何も知らないと、ちゃんと調べがつくと思っていた。しかし後になって知りました。拘束された人々は何年も拘束され続ける。親は子どもがどこにいるかさえわからない。

戦争では人間性が失われます。振り返ってみると、自分自身が身をおいていたところはまるで異世界です。ある日、車でバクダードを走っているとき、道端に死体を見つけました。男の死体を確保するため車をわきに寄せて、憲兵かだれか当局者が来るのを待っていました。男は明らかに殺害されていました。すると仲間たちが車から降り、死んだ男と一緒に写真を撮り始めた。おきまりの満面の笑顔で。そして私に言いました。「おいバイジェス、お前もこいつと一緒に写真を撮るかい?」

私は「ノー」と答えました。「ノー」と言ったのは、めちゃくちゃなことだからでも、倫理の基準に反しているからでもありません。断ったのは、自分が殺した獲物ではなかったからです。自分が殺していないのに戦利品にするわけにはいきません。それが、あのときの心境でした。私はこの男が本当に死んでいることに何も感じていなかった。自分でやってもいないことを手柄にするものじゃない、と考えていた。しかしそれが戦争です。それが戦争なんです。



注1:2003年4月、ファルージャ(当時の推定人口約30万)への転進を命じられた第82空挺師団は市の近郊に本隊を配置し、23日になって少数(約 700兵)の戦闘部隊だけを市内に送った。各部隊は一発の銃弾を受けることもなく、それぞれ陣営を築いている。ファルージャに本拠を置いていたバース党の部隊は、本部も基地もリゾート施設もすべて捨てて霧散していた。

C中隊(150兵)が拠点としたのはアルカイド小学校だった。高い塀に囲まれた建物が防衛に適していたからである。28日午後10時、数百人の市民が小学校へ詰めかけ、校舎の開放と教育の再開を求めて抗議の声を上げた。

C中隊の兵士数人が、抗議デモの群衆に向かって無差別に銃弾を浴びせた。市民の死者は17人、負傷者は70人を越えたという。米軍は、銃撃を受けたので反撃したと主張した。しかしアメリカに本拠を置く国際人権団体「ヒューマン・ライツ・ウオッチ」の調査によると、抗議デモを行った市民のなかに銃を手にしていた者はいなかった。

この無差別発砲事件が問題化したため、第82空挺師団はファルージャの任務を解かれ、バグダッドへ向けて転進することになる。事件を契機にファルージャでは、米軍の占領に抵抗する武装勢力が組織され、断続的に攻撃をくり返していった。

翌2004年、米軍は4月と11月の二度にわたり、ファルージャ市街を完全に包囲した上で、武装勢力の殲滅作戦を敢行した。

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